朝、目覚まし時計にしているスマートフォンのアラームを止める。温かい毛布の中から這い出て冷えた外気に身を晒す。そろそろ厚手の毛布に替えた方が良いかもしれない、とぼんやり考えながらクローゼットを開ける。トレーナーを取り出して袖を通し、真ん中に描かれた絵に眼を落とした。自転車を漕ぎ鼻歌を歌うティラノサウルスの絵を「可愛い」と感じて購入したものだ。 電車に乗って大学へ向かう最中、流れる景色を眼で追いかける。幾分穏やかになった日差しと車内の暖房に眠気が忍び寄ってくる。その半分閉じた瞼を押し上げるほど鮮やかなものが目に飛び込んでくる。線路沿いの家の庭に植わった柿の木が丸々とした実をつけていたのだ。鮮やかな朱色が深い緑の葉に守られているのを見て「可愛いな」と思った。 座学を済ませて昼休み、ルーズリーフも筆箱もそのままに購買で買ったパンに齧りつく。隣に座る友人はストラップのたくさんついたスマートフォンをスクロールしている。たわいない会話を交わしながらふと彼女の指先を見る。控えめに色づいた爪には手描きで花柄が描かれていた。思わず「可愛い」と口からこぼれる。

 自転車を漕ぐティラノサウルス、丸々とした柿の実、繊細なネイルアート。それらはもちろん可愛い。だが、全て同じ意味の「可愛い」なのだろうか。例えば小さな動物を見て抱いた「可愛い」と言う感情と、陽気なティラノサウルスを見て抱いた「可愛い」と言う感情は同じなのだろうか。まして、私は柿の実のどこに可愛いと言う感情を抱いたのだろうか。
 立ち止まって考えてみると分からない。けれども確かに私はティラノサウルスを、柿の実を、ネイルアートを可愛いと思ったし、その感情が間違いだったとは思わない。
 可愛いと言う言葉は「可愛い」と言う意味以外の意味を持ち合わせているのだろうか。

 そもそも「可愛い」とは何なのか。  広辞苑を引くと「可愛い」の意味は三種類示されている。
 1 ふびんだ。かわいそうだ。 2 愛すべきである。深い愛情を感じる。3 小さくて美しい。
 ネイルアートは確かに小さくて美しい。だが柿の実は、ティラノサウルスはどうだろう。愛すべきかもしれない。だが、深い愛情を感じるほどではない。柿の実は小さいが、電車の中から見た程度では美しいも何もないし、ふびんでもかわいそうでもない。どの意味も、私の抱いた感情にはうまく当てはまらない。では、私の抱いた感情は「可愛い」ではなかったのだろうか。

 時を平安時代に巻き戻す。「かほはゆし」と言う言葉が短縮され「かわゆい」「かわいい」と言う形になった。そこに「可愛」の漢字が当てられ、現代の「可愛い」になったのだ。  「かほはゆし」の意味は「顔を向けていられないほどである」「見るにしのびない」「ふびんだ」など。そのような、かほはゆい人が気の毒で助けてあげたくなる。と言った思いが愛らしく思う感情になり、現在の一般的な「可愛い」の意味に転じた。  現代のような、愛らしいものに向けて使われる可愛いは「うつくし」と言う言葉が担っていた。代表的なのは、やはり枕草子の第一五一段ではないだろうか。「なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。」の一文は、日常から美を見出す彼女の感性の結晶だ。雀が跳ねてやってくる様、雛人形の道具、子供たちが遊ぶ姿。心をくすぐる可愛いが短い文章の中にぐっと詰められている。

 最近流行りのバルにて、アルコール代わりのジンジャーエールで乾杯する。集まってもらったのは十代から四十代の女性四人。仕事場こそ同じだが、趣味も年齢もバラバラだ。口をつけてから、一つの疑問を投げる。

「あなたの可愛いとは?」

「好きな漫画のキャラクター! 眼が大きくて、話し方も仕草も全部可愛い」
「小さい頃買ってもらったぬいぐるみ、可愛いし愛着あるし、寝る時もずっと一緒!」
「昭和メルヘンをモチーフにしたブランドが、レトロで可愛くて好き」
「ショーウィンドウにお菓子がいっぱい並んでるの、可愛いし見てたらわくわくしてくるよ」
「デビューした時から応援してるアイドルが最近また可愛くなってる!」
「この前見かけたスニーカー、パステルカラーで可愛くて、買うか迷ってる」
「夏に食べたかき氷が、シロップとナッツがたっぷりでキラキラしてて可愛かった!」
「普段つれない猫が寒くなった途端に甘えてくるのがすごく可愛い」
「今使ってるスマフォカバー、手触りも良いし可愛いし気に入ってる」
「スーパーのお菓子売り場の食玩が、リアルなのに可愛いからすごい!」
「小さい子がお母さんとペアルックして歩いてるの、可愛くて微笑ましかったなぁ」
「私はねぇ……ギャップかな」  雰囲気の違う答えに注目する。 「毛むくじゃらのこわもて男の人がにっこり笑ってたり甘いもの食べてたり、いっぱい筋肉のついた男の人が女装したりしてるのがすっごい可愛いの。こわもての顔とか筋肉で出来た近寄り難い壁が一気に壊れるのがすごい……好き」  彼女は海外のハードなメタルバンドをこよなく愛している。その中でも一番好きなバンドのメンバーは、イベント事になると時折女装を披露する。逞しい筋肉や刺青が覆う身体をセクシーな衣装に詰め込み熱唱する。その姿はまさにギャップの極み。また、彼女曰く「バンドTシャツはダサくてなんぼ!」  禍々しいメッセージが大きく太く、だがシンプルな書体で書かれているのもまた一つのギャップだ。 他にも、 「好きなアーティストが、ファンサービスで近づいて来てくれる時に機材のコードを必死に引っ張って伸ばしてるのがいじらしくて可愛かった」 「パソコンの操作が分からないって何度も同じ事聞いてくるの、鬱陶しいけど可愛い」 「お店に来てくれるおじいちゃん、何喋ってるかあんまり分からないけど可愛い」  など、男性に対して「可愛い」と思う意見も多く挙がった。だがそれは誰に対しても抱くわけではなく「相手に対して多少なりとも好意がないと無理!」らしい。 「昔は男の人に可愛いなんて言わなかったし思いもしなかったけど、いつの間にか思うようになってるなぁ」 「今は「ヤバい」みたいに、便利な言葉になってる。使いやすいし、気持ちにしっくりくる」  幼いものや小さいものに対して抱く愛情を示す意味が強かった可愛いは、目上の人間や男性に向けて使われる言葉ではなかった。だが、親近感が湧く、心惹かれる、大事にしたい、魅力がある、など様々な意味を得てマジックワードになりつつある今の「可愛い」の対象は驚くほど広範囲だ。辞書に収めるのは難しいどころか、「可愛い」について一冊の辞書が出来てしまうだろう。

 可愛いを客観的に見ることはとても難しい。なぜなら、可愛いとは主観的な感情だからだ。自分にとって可愛いものが他人にとってまるで可愛くない事もあるし、他人の可愛いものが自分にとって可愛くない事もある。我々の感性の豊かさを象徴するかのように存在するその無限の差異の中には、共通点が一つある。  それは、かけられた一手間を、誰かの感性を、向けられた純な感情を、何気ない仕草を、愛すると言うことだ。「可愛い」ものを愛おしく思い、心動かされ、ときめくのには、時代も性別も国籍も世相も関係ない。肯定されることはあっても、否定されたり、弾圧を受けたりすることがあってはならない。  華奢で物憂げな表情を浮かべた乙女を多く描き、浴衣のデザインなども手掛けていた画家、竹久夢二の美人画に始まり、戦後のカラカラに乾いた心に栄養を与えるかのように、とびきりの「可愛い」を生み出し、夢と希望を与えた雑誌「それいゆ」「ひまわり」などを創刊した中原淳一。世間の可愛い観と闘うかのように独自の路線を突き進み、新たな「可愛い観」を生み出し広めた雑誌、オリーブ。一本の芯を通しながら時代の流れを吸収して進化を続け、世界中の人に愛されているハローキティ。  古くから連綿と続いてきた「可愛い」は、ある時は時代の陰に身を潜め、跳ね返り、強さの象徴になり、ある時は寄り沿うようにして人々に愛され、心をときめかせてきた。インターネットが発達し、スマートフォンも普及し、世界の出来事から個人の趣味まで知ることができるようになった現代は、まさにときめきのビックバンが起きている。簡単に知ることができるようになった未知の世界は「可愛い」の宝箱だ。  平安の世を生きた清少納言のように、我々も様々なことに打ち震え、ときめく心を持っている。それが、陽気なティラノサウルスでも、柿の実でもネイルアートでも、女装でもおじいちゃんでもだ。  ふびんだから可愛いのではない。小さくて美しいから可愛いのではない。琴線に触れたそれに、心をくすぐってくるそれに、深い愛とときめきを覚えるから「可愛い」のだ。

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