学科長にインタビュー!
松尾理也という男

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 大阪芸術大学短期大学部のメディア・芸術学科の学科長であり、我々、ライティング・編集・取材・ウェブコースの先生でもある松尾理也先生にインタビューしてきました。生い立ちから新聞社時代、そして現在まで、興味深いお話をたくさん教えてくださいました。

生まれから現在まで、松尾先生の来歴

 松尾先生は昭和40年に兵庫県の加古川市に生まれました。昭和63年の4月に産経新聞に入社して以来、新聞記者として勤務し、世界各国の戦場や注目の現場などの生の声を取材してきました。産経新聞時代の感想を聞くと、「産経新聞は全国紙のため、世の中が動く瞬間を作り出せるのがやりがいだった」と語ります。また、朝刊は全国紙なので全国に配っていましたが、夕方に発行される夕刊は京阪神周辺で60万部もの数の新聞を配っていたと語り、松尾先生はそこの担当だったため、責任も重大で大変だったと語ってくださいました。

 その後、48歳で学校の先生としても活動を始めます。その理由を聞くと、「歳をとると人事をやったり、部下に指示を出すことが増える。それは面白くないと思った。今まで生きてきた中で、現場が一番面白いと感じていたので、現場に戻りたいと思った」と答えてくださいました。

先生の写真1

新聞社はブラック!?一番印象に残った事件

 新聞記者として活動する中で一番印象に残っている事件を聞くとほぼ間を空けず、「よど号ハイジャック事件」と答えてくださいました。といっても、同事件を松尾先生が直接取材したわけではありません。1970年3月31日、日本航空351便がハイジャックされた事件で、日本初のハイジャック事件として有名です。ハイジャックした犯人グループは北朝鮮に逃亡しましたが、そのうちの1人が、松尾先生が働きはじめた1988年に日本に帰ってきたそうです。犯人は東京で捕まったため、取材も東京で行われるであろうと考えていましたが、その取材が神戸で行われることになったため、社内は大パニック。結局、松尾先生の休みはなくなり、泊まり込みで記事制作に追われることになります。

 さらに、東灘区で山口組と分裂した一和会の抗争の最中、手榴弾によって重傷者が出る事件が発生。結果、仕事が重なりすぎたことによって約40日間、神戸支局から出ることができず、家に帰ることができなかったそうです。その時はさすがの松尾先生もかなり疲弊したそうで、話している時も苦笑いが多く見られました。

先生の写真2

日々挑戦。今後やりたいこと

 様々な現場を渡り歩き、自身の経験を次世代に伝える活動を続ける松尾先生。今後の展望を聞くと、うーんと唸った後に「研究に力をいれていきたい」とにこやかに答えてくださいました。大学で生徒たちに出版について教えることによって教育には既に参入していますが、研究の方はまだまだこれからだと語ります。どんな研究がしたいのか、具体的に聞くと真剣な表情でこう答えてくださいました。「新しい切り口で研究したものがどんどん本になっていく。だから、どんなに小さくても学問としての第一歩を踏み出せるような研究がしたい」。松尾先生の挑戦は続きます。

 そんな松尾先生の新著「大阪時事新報の研究」が7月15日に発売されました。松尾先生の新しい第一歩をぜひご覧ください。

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