下東先生に
インタビュー

メイン

週に1度会うが、どこか謎に包まれている出版コースデザイン担当の下東先生。 約40分の濃いインタビューで先生のキャリアから考え方まで深くお聞きすることができた。話を聞いているととても現実主義な人だと感じた。なぜこの仕事を選んだのか、長くデザインの仕事を続けているゆえの業界話やギャラの話まで、たくさん面白い話を聞くことができた。プロのデザイナーになるために、どんな人生を送ってきたのだろうか?

先生のキャリア

大阪芸術大学デザイン科出身。専攻はグラフィックデザイン。 芸短でデザインを教える傍ら、現在もデザイナーの仕事をしている先生。 私たちは、まず定番の質問をしてみた。 牧野「なぜ、デザインの道に進もうと思ったのですか?」 下東先生「最初は絵描きになりたかった。でも、絵描きになって食べていけるのなんか一握りだろ?」と、先生は笑いながら話す。 どうしたら、好きである「絵」で食べていけるのか?そう考えた結果、デザインだったら食べていける、自立できる。と思いついたそうだ。「軽くデザインだけで食べていくことだけを考えていた。」またまた笑いながら出たこのセリフから、下東先生はとても現実主義な人なんだろうだと感じた。(ちなみに、本当はインテリアやプロダクトなどのデザインがしたかったが、下東先生はどうしても数学が苦手で、諦めたそう。)
そんなこんなで先生は芸大卒業後、新卒で印刷会社のデザイナーとして1年間デザイン業務を学んだ。3、4年は転職を繰り返して、デザイナーとしての土台をがっしりと固めた。 そして独立。最初の事務所は地下鉄四ツ橋すぐの場所。現在は南森町で個人事務所をしている。最初は個人事務所のため、下東先生とアシスタントの女性1人で回していたそう。そこでの仕事はというと、大手広告代理店の下請けがメインだったという。 私の中で大手広告代理店は広告、ざっくりいうと文やコピーの仕事が中心だと思っていたが、デザインも広告制作においてとても重要な役割なんだと新しく知った。 そこではデザイナーとして、広告とマークシンボル(ロゴ)のデザインが主な仕事だったという。大手広告代理店がクライアントだというということもあって、先生自身、仕事をするにあたって大事なことは相性だと話す。 いろんな業種の人たちと広告を制作するうえで、人付き合いはとても大事だ。けれど「どれだけコミュニケーション能力が高くても実力が伴わないと意味がない。」と先生は話す。デザインの仕事において、「期日を守る」そして「デザイン力」そこが一番大事なんだと話す。その他にも、デザイナーとしての仕事はたくさんあった。例えばカレンダー制作。私たちが何気なく家に飾っているカレンダー。あれもデザイナーの人が表紙からデザインしているらしい。なるほど、身の回りにデザインは溢れている。

デザイナー人生での大きな仕事は?

そして、先生の中で特に印象に残る、そして大変だった仕事があった。 プレイガイドジャーナル社の「ぷがじゃ」のデザイン編集に関わったことだ。「ぷがじゃ」は1971年から1987年まで、大阪で刊行された情報誌である。デザインを期限内に提出したと思えばまたすぐに締め切りが来る。その繰り返しで、担当していた時は半端じゃない仕事量だったそうだ。そんな忙しい時は、バイトを含め4人で回していたそう。1つの雑誌を作るうえで、大変なのは編集部だけではない。表紙を担当するデザイナーを含め、その雑誌に携わるすべての仕事も同じくらい大変なんだとつくづく尊敬する。 先生は、デザイン業界のことを浮き沈みの激しい業界だと言っていた。確かに話を聞いていてそう感じる。 そんな中でも、小さい仕事の積み重ね、大手広告代理店での経験で培ったノウハウ、そして人脈を経て、現在は演劇をメインとして、大阪・名古屋の劇団のポスターチラシの作成などをしている。先生としての下東先生とは違う、1デザイナーとしての作品も見てみたいものだ。 「ただ、好きなことを仕事にしたい。」から始まった、先生のデザイン人生はまだまだ続いていきそうだ。

PAGETOP