身近にある地元の歴史
聖徳太子像から中山寺へ

中山寺

皆さんは、芸短生の多くが利用しているJR中山寺駅のバスロータリーに、聖徳太子の像があることを知っていますか?この像は「馬上太子像(聖徳太子騎馬像)」といって、JR中山寺駅前広場完成を記念して中山寺より寄贈されています。実は、中山寺は聖徳太子が創建したと伝えられています。今日では実名の厩戸王よりも没後に送られた聖徳太子の尊称が有名な聖徳太子が、数多く建設したお寺の一つに中山寺も含まれるということになります。なぜ、聖徳太子は中山寺を建設したのかを解明するため、中山寺に取材に行きました。

中山寺 山門 五重塔 本堂

中山寺についての言い伝えや建物について紹介

中山寺の言い伝え

聖聖徳太子の創建であると伝えられる観音霊場。十一面観世音菩薩の霊跡として、第14代仲哀天皇の先后大仲姫(さきのきさきおおなかひめ)と鳳坂王(かごさかおう)・忍熊王(おしくまおう)の両皇子を祀るため、もしくは聖徳太子・蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるためとも伝えられている。草創の地は現在の奥之院付近だった。西国三十三所観音巡礼の二十四番札所である。

平安時代末期、多田行綱が妻の不信心に悩まされていたところ、観音さまが「鐘の緒」(鰐口を鳴らす綱)でもって妻を改心させ、お世継ぎも生まれ夫婦は仲睦まじくなった。以来子授かりや安産祈願のお寺としてお参りをする人が多くなる。

幕末には、中山一位局が明治天皇をご出産される際に安産祈願をして御平産であったことから「明治天皇勅願所」として各地に広まった。

本堂

現在の奥之院付近に本堂があった当時、1578年の荒木村重と織田信長の有岡城の戦いの戦火により焼失した。豊臣秀吉が、当寺に祈願して豊臣秀頼を授かったとされており、その縁か1603年に豊臣秀頼が片桐且元に命じて現在の本堂や護摩堂などを再建している。現在、兵庫県の有形文化建造物に指定されている。

山門

山門は1646年に徳川家光によって再建され兵庫県指定有形文化財。二重門に分類される。上層内部では、地蔵菩薩・閻魔王・司命・司録を祀り。下層南側(境内に入るときに見る側)に阿形・吽形の仁王像、北側(境内から出るときに見る側)に獅子・狛犬が祀られている。

五重塔 (青龍塔 しょうりゅうとう)

2017年に再建。珍しい深みのある青色で彩色されている。これは、仏の智恵と四神のうち東方を司る青龍をイメージしている。青色以外わかりやすい特徴に裳階(もこし)がある。裳階とは雨風から構造物を保護するためのもの。建物を実際よりも多層に見せることで外観の優美さを際立たせる効果がある。地下には、ネパールのダルマキールティ僧院より請来された御舎利が安置されている。各層の隅瓦には、トンボ・カエル・カブトムシ・クワガタ・バッタ・ヤモリ・ワタリガニ・タコ・龍などの生き物の飾り瓦が配置されている。これはお釈迦様が涅槃に入られるときにさまざまな生き物が集まってきた涅槃図のように、境内の自然と一体となって、仏塔すなわち釈迦仏法を末永く守ってもらいたいとういう願いが示されている。    

大願堂 ステンドグラス

お寺に関する豆知識


巡礼によって生まれたわらじ祈願

仁王像の周りには多くの「わらじ」が奉納されています。仁王像は、身体健全、とくに健脚のご利益があると崇拝されてきました。昔の西国巡礼が長く苦しい旅であったため、自身の足腰が耐えられるように祈りを込めて奉納されていたことが由来といいます。巡礼の途中でわらじが破れたとき、先人が奉納したわらじを借用したあと、次の札所に新しいわらじを納めていく習わしがあった。そのため「足腰が丈夫であるように」との願いを込めて今でもわらじが奉納されているようです。

三十三所観音巡礼とは

718年徳道上人(とくどうしょうに)が62歳のとき、冥土の入口で閻魔大王に会い、あまりにも地獄へ送られるものが多いことから、三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように、託宣とともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。この宝印によって霊場を定め、上人と弟子たちは三十三所観音巡礼を説いたが、当時の人々には受け入れられなかったため、機が熟すのを待つこととして三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めた。約270年後に熊野大神が花山法皇に姿を現し、三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。その後、石櫃から三十三の宝印を見つけ出した花山法皇の巡礼により、人々に広まり、現在の三十三所巡礼が定められたという。

五重塔はなぜあるのか 

仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(御釈迦様の遺骨)を祀るため造られ始めたストゥーパに起源をもっています。ストゥーパは卒塔婆の語源です。宇宙は地・水・火・風・空の五つの要素で構成されているという仏教の宇宙観、五大思想を表現しているのが五重塔です。一層目の基礎が地、二層目の塔身が水、三層目の笠が火、四層目の請花が風、五層目の宝珠が空を表しているから五重の構造になっています。

中山寺取材散策

中山寺取材散策

学校でカメラを借りてからいざ中山寺へ。JR中山寺バスロータリーに設置されている聖徳太子像を撮影。弓・馬などとても細かく作られていました。
阪急中山観音駅から徒歩数分で中山寺の山門が見えてきます。途中には、喫茶店・食べ物屋などが数件ありました。午前中に中山寺に参拝に行きランチなどを食べて帰ることができそうです。
山門は、仏教において俗世との境を表す門です。とても大きな山門で、近寄ると仁王像の周りに藁がたくさん吊り下げられています。後に調べたところ足腰の健康を仁王像に祈願した「わらじ祈願」の藁でした。一礼してから敷居を踏まないように山門を通ります。目に入るのは、本堂に続く階段までの石畳の参道と左右に水子供養や毘沙門天・不動明王などの仏さまの名前の文字が目立つ院が建ち並んでいます。それぞれ五つの院の前に祀っている仏様の名前を門の横に書いているようです。途中に堅焼きせんべいの屋台がありました。気にはなりますが帰りも開いていたらよりたいと思います。
石階段から右手側にはエスカレーターがあり、バリアフリー化されていて子授かり祈願の方だけでなく、すでに妊娠している安産祈願の方にも安心して参拝できるようになっていました。
階段を登ると左側に手水舎が右側に寺務所があります。手水舎で手・口を清めるのは仏様の領域に入るときに罪・穢れを落とすためです。蓮の形のオブジェから水が流れていました。柄杓を使って手を清めたいところですが、コロナ対策のため柄杓がなく、管から流れる水で直接清めました。この階層は、閻魔堂・寿老神堂・ねはん堂などが周囲にありました。

もう一度石階段もしくはエレベーターを登るとようやく本堂が望めます。正面に常香炉があります。お線香を持参していなかったので十円で購入して、お線香を供えます。常香炉にお線香を供えるのは、煙を受けて心身を清めるためです。風が強くてお線香になかなか火が移ってくれませんでした。お賽銭を入れてから鰐口を鳴らして手を合わせてから一礼。取材で境内をうろつくことをご挨拶させていただきました。
右側におみくじが設置されていました。折角なので引いてみました。百円を入れて箱を振ってくじを出します。結構箱が重かったのとなかなかくじが出てくれなくてちょっと困りました。番号が違うけれど、一緒に取材に行った人も私も大吉を引けました。自分で棚から紙を取り出すので引いた番号以外のもちらりと見えるので隣の番号が凶だったりしたらなんとなく冷っとした気分を味わえる機会がありそうだなと戯言を考えつつ本堂を後に。
珍しい青い五重の塔に行きます。階段を登り近くで見ると新しくて綺麗な塔でした。青がとても色鮮で参拝の折によれる撮影スポットとして、人気になっていたりしないかなとつい考えてしまいました。中山寺の方にお話を伺っているときに瓦にバッタや動物を模したものがあるとお聞きしました。普通に数えると六層に見えるのは、一番下に裳階(もこし)があるため。裳階付きの五重塔は海住山寺や法隆寺など、数少ない様式です。
五重の塔から向かって左側は大師堂がありました。立て札を読むと真言宗の宗祖弘法大師をお祀りしているようです。弘法大師は、日本史で習う平安初期に真言宗を日本に広めた空海のことです。

子授け地蔵さまのところに向かう途中に本堂の裏手がよく見えます。屋根の上についているのは、火除けのしゃちほこではなくて蓮の花をかたどっていると聞きました。
子授け地蔵さまには、結婚もしていない身では今の所お世話になれそうにないので流させてもらいます。本堂の側面を回るように通ると石の鳥居があるお社がありました。お社は鎮守社といって境内地を守る鎮守神と恵美須神が祀られているようです。
そのまま進むと大願塔があります。2007年に再建され大日如来をお祀りしている永代供養塔。地階に阿弥陀如来と永代供養された方のお位牌をお祀りしている妙音殿があります。
大願塔から下に階段を降りると阿弥陀堂があります。名前の通り阿弥陀如来が祀られている納骨回向所です。阿弥陀堂の右側から妙音殿に入ることができます。ロビーには西国三十三所の観音さまが来迎する星降りを表現したステンドグラスがあります。他にもロビーの奥に本堂の天井に描かれている絵が正方形に切り取って並べられているいので興味のある方はお静かにお邪魔してみたらいいと思います。
阿弥陀堂の左側には北向き地蔵とも呼ばれる亥の子地蔵尊があります。無病息災を祈るお地蔵さまです。
少し先には絵馬を奉納する場所が設置されていました。風で絵馬が揺れてカラコロという音が響いていて音がきれいでした。風鈴とはまた違った風情があります。
階段を登ると奥に絵馬堂があります。参詣人が自由に休憩できるお堂のようです。見晴らしのいい柵の近くに移動すると複数のベンチがあり、すべてに思い思いに休んでいる方がいました。

坂道を降りていくと、左側に大黒堂があり手水舎がある場所に戻って来ました。大黒堂と寿老神堂の間の石壁に石の櫃(いしのからと)があります。この古墳は第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后・大仲姫(おおなかひめ)の墳墓とされています。三十三所巡礼の三十三の宝印が納められていた石櫃が、この石の櫃と呼ばれている墳墓です。
ぐるっと一周しました。折角なので、御朱印を書いてもらいました。通常の七種類のなかから二つ選びました。一つ書いてもらうのに三百円かかりました。思っていたより高かった。 財布に痛い打撃が入りましたが、気を取り直して行くときに気になっていたおせんべいの屋台に向かいます。堅焼きせんべいのお店で、二種類のごまで風味が違う堅焼きせんべいが売っていました。店主に聞いたところこの堅焼きせんべいは、歯固めの意味を込めて売っているとのこと。お宮参りや七五三のときに子供が口にすることで歯固めになるように堅焼きのせんべいをお寺で売っているようです。大学にいる先生たちへのお土産として購入してから山門をくぐるときに本堂に一礼して学校へ帰還します。

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